少し小高いところから見るとなんとも複雑な形をしています。誰が何の目的で、いつ、どのように作ったのかが全くわからないのだそうで、12世紀「播磨国内神名帳」や「峰相記」には生石大神などと書かれているのだそうです、少なくともそれ以前に作られたものだと推測されています。
〇生石神社御祭神について〇
神代の昔、大穴牟遅(おおあなむち)と少毘古那(すくなひこな)の二神が、天津神の命を受けて出雲国より播磨国に来られた時に、二神が相談し国土を鎮めるに相応しい石造りの宮殿を建てようとしました。 一夜のうちに現在の形まで造ったが、工事半ばで阿賀の神(あがのかみ:播磨の土着の神)の反乱が起こり、宮殿造営を止めて現在の神爪地区に多数の神様を集めて反乱を鎮圧している間に夜が明けてしまい、宮殿は横倒しのまま起こすことができませんでした。
しかし二神は、宮殿が未完成でも二神の霊はこの石に籠り、永劫に国土を鎮めんと言明されました。以来この宮殿は石宝殿(いしのほうでん)、鎮の岩室(しずのいわや)と言われるようになりました。
と御由緒書きにあります。
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